凪にピリオド 


「わっ、可愛い猫」

 買い物を済ませ、食材が入った紙袋を痺れる手で持ち足早に家に帰ると、真っ黒な毛並みに真ん丸な金眼の大きな猫が突然の雨を睨むように家の軒下に座り込んでいた。びしょ濡れのまましゃがみこんで猫と目線を合わせると鼻先がピクリと動いたものの、一向に動く気配がない。
 空全体が重い灰色に染まり軒下からは滝のように雨が流れ落ちている。とても驟雨とは言えない雨の中出るに出られなくなっているのだろう。

「これってピアス、だよね? 変わった猫……」

 およそ猫の耳に似つかわしくない金のフープピアスが左右二連ずつ付いているし、誰かの飼い猫に違いない。散歩中に雨に降られて家に帰ることもままならず近場で雨をしのげる場所に避難してきた、といったところだろうか。とにかくこのまま軒先に放置したら風邪をひいてしまう。飼い主探しは後にした方がいいと判断し、一旦保護することにした。玄関先に荷物を降ろして驚かせないようゆっくりと猫に近づく。一体いつから居たのやら、両手で猫を抱え上げるとしっとりと濡れて随分冷たくなっていた。猫がくしゅんとひとつくしゃみをした。

「えーっと、ちょっと待ってね、お風呂お風呂……猫ってお風呂いいんだっけ?」

 こんなことになるのなら今日のおやつはクッキーにしようかチョコレートにしようか迷わずさっさと買い物を済ませて帰れば良かった。抱え上げてもじっと大人しくしている猫を連れてとりあえずお風呂場に降ろす。ブルブルと水を飛ばす猫にごめんねー、と声をかけてぬるま湯を出すシャワーヘッドを肌に沿うように当てた。うにゃぁ、と嫌そうな悲鳴をあげたがじっとしているし、さっきもお風呂場に来るまで水気を飛ばさなかったし中々賢い猫だ。

「雨あがったら飼い主さん探しに行こうね」

 そう声をかけると猫は大きな目を瞬かせてにゃぁ、と鳴いた。

 ◆

 体を乾かしてすぐ、体力を使い切ったのか眠り込んだ猫を横目に買ってきた食材を冷蔵庫に突っ込み腕を組んだ。いくらピアスをつけた特徴的な黒猫とはいえ、飼い主がすぐに見つかる保証は無い。しばらく家にいることも考えないといけないだろう。なんせ猫どころか動物を飼ったことがないものだから知識が足りない。とりあえずご飯は魚あたりをあげておけばいいだろうか。
 ちらりと背中を上下させる猫を見やる。体はそこそこ大きく、とても子猫には見えない。成猫の食欲がどれほどか分からないけれど家にある分で足りるだろうか。
 自分用に買ってきていた鮭を取り出しフライパンの上に並べる。もし多ければ自分で食べればいいやと二尾焼くことにした。自分用ならバットに並べて塩で下味をつけるけど猫用だしあまり味はつけない方がいいかとそのままフライパンに火をつけた。じっくり表面に焼き色をつけながら昨日漬けておいたきゅうりを取り出す。しっかり味が染み込んでいそうな色をしたそれを食べやすい大きさに切っていると起こしてしまったのか猫が足元によってきた。

「ごめんね、今手が離せないの。向こうで待っててくれる?」

 包丁から手を離さないままに話しかけると人の言葉を理解しているのか距離を置いた猫に目を見張った。飼い主は余程優秀な躾をしたらしい。
 切り終わったきゅうりをタッパーに移して冷蔵庫に仕舞う。さっと包丁とまな板を洗ってまだかと急かすように睨んでくる猫の視線を背中で受け止めながら焼き色のついた鮭をひっくり返した。後は蒸し焼きにしてしまおうと蓋をし、時計に視線を移す。時計の針は11時を差していてお昼ご飯には早いし朝食には遅いしでなんとも微妙な時間だった。自分用のご飯を作るだけならもう少し後でも良さそうだけど、どうせならついでに自分用のお米だけでも洗っちゃおうと米びつから一合分のお米を鍋に移す。今から炊けば丁度いい時間に出来上がるだろう。
 絶えず窓を叩く雨音をBGMにお米を研ぐ。冷たい水に指先が悴むのを感じながらさっと研いで吸水のために脇に退けた。
 距離を置いたものの背筋をピンと伸ばしこちらの様子を伺い続ける猫にもう少し寝たらどうかと声をかける。早く飼い主を探して欲しいのかもしれないけれど、生憎雨足は強まっているし風も吹き荒れだした。嵐と呼べる状態の中探しに行くのは無謀だろう。
 落ち着かなくても今は手が離せないから遊び相手になってあげられない。もうすぐ鮭は焼き上がるけど焼きたての魚を与えて火傷をさせる訳にもいかないのでご飯もまだ少し先になる。そうなるとどうしても寝るかその辺でゆっくりしてもらうしかない。

「ちゃんと元の場所に帰れるようにするから、待ってて」

 賢い猫はきっとこちらの言葉も分かるだろうとなるべく柔らかい笑みを浮かべて励ましの言葉をかけた。ふんっと鼻を鳴らしてゆっくりその場で丸くなった猫のピアスが小さく揺れるのを不思議な心地で眺めた。突然の雨の中現れた黒猫。金眼に金のピアスをつけた猫はどこか浮いた存在にも見える。まるで猫なのに猫じゃないような。

「飼い主さん、心配してるだろうな……」

 頭の中で島内の住民を一人一人思い浮かべる。ここは島の端の方に位置していてどちらかと言えば田舎と形容するに近い。野良猫を何人かの住人で可愛がっている光景は見かけるけれど家で猫を飼っているという話はあまり聞いたことがなかった。ピアスをつけた猫だなんて特徴があるなら一度くらい耳にしていてもおかしくない。となると島の中心地に栄える街の住民の飼い猫だろうか。普通に暮らすだけなら中心地に行く必要がないためあまり立ち寄らないがあの街には洗練された人が沢山いた記憶がある。猫もお洒落をしていたって不思議じゃない。それこそピアスをつけるのが流行っているのかも。ここは中心地から離れてはいるけれど猫が歩いてこれない距離ではない。念の為この辺りで話を聞いた後街へ行って飼い主を探してみようかと計画を立てた。
 冷めた鮭を解し平たいお皿に移して猫の前に置く。猫の丸い背中を軽く叩いて起こすとバッチリ目が合ったので「食べれる?」と声をかけた。鮭を見下ろし一向に手を付けない猫に流石に食べ物は警戒してるのかな、と目の前で一口食べてみせると何度かの瞬きの後少しずつ食べ始めたのを見届け溜飲を下げる。この嵐が過ぎ去るまではここで生活してもらうしかないから大人しくしててくれる子で助かった。猫の隣に腰を下ろしぼんやりと食べる様を観察する。どことなく食べ慣れない感じに元の生活を想像した。きっとただ鮭を解しただけのものではなく良いものを食べさせてもらっていたんだろう。

「君はどんなお家で飼われてたの?」

 膝を抱え訊ねてみる。猫はただ見上げるだけで当然返答はない。けれどそれが心地よかった。返事はなくとも話を聞いてくれている気がして。
 ここは長閑で静かな田舎だ。少し歩けば栄えた街があるのにあまり行き来することはない。それは用がないからという理由の他に住人の閉鎖的な性質も合わさっている。閉鎖的で、新しいものをあまり取り入れない住人達に囲まれた生活は安定していてぬるま湯に浸かったような居心地はあるけれどどこか窮屈だ。この窮屈な場所で私は自分の胸の内を明かしたことはただの一度もなかった。ここでの生活に不満がない顔をして老後までずっとここにいるのが当たり前だと振舞ってきた。でも本当はもっと色んな景色を見てみたい。いつか島の外へ出て沢山の物に触れる冒険をしてみたいとずっと夢見ていた。
 ポツポツと猫に話聞かせている内にどんどん現実と夢の狭間に捕らわれてしまい抱えた膝に額を擦り付けた。にゃぁと鳴く猫に都合良く励ましてくれているのだと解釈し「ありがとう」としなやかな背を撫でた。

「もしかして、君も冒険してきたの?」

 肯定の返事のつもりか一声鳴く猫に破顔する。窮屈な家から飛び出して冒険してきたのだとしたらここに辿り着くまでに一体どんな景色を見てきたのだろう。猫の視点と人間の視点では見えるものがまるきり違って面白そうだ。
 人間が通れないような細い路地や屋根を伝って見知らぬ世界を冒険する猫の姿を想像するだけでワクワクする。見慣れた高い建物が建ち並ぶ街から小さな市場やポツポツと家が建つこちらのエリアに来て何を感じたのか。これはこれで悪くないと思ってくれてたらいいな。

「あ! いけない。お米放置しっぱなしだった……!」

 ゆっくりしててね、の意を込めて頭をひとなでし、慌ただしくキッチンに駆け込む。吸水させていたお米を入れていた鍋をコンロにセットして火をつけた。

 ◆

 猫を拾ってからというもの、家の中で話すことが増えた。ずっと本や新聞を読んだりするだけで誰かを招いてお茶をしたりもなかったから自分がこんなに話せるだなんて思わなかった。
 スル、とくるぶしに何かが触れて見下ろすと猫がいる。朝起きたら枕元に猫が丸まっている。それだけで自分が受け入れられているような気がしてたくさん話をした。世界を旅してどんなことをしたいか、ここでの暮らしのこと、最近発見した美味しい食べ物の組み合わせ。些細な話も猫は黙って聞いてくれた。出会ってまだ三日足らずだけどずっとこうしている事が当たり前みたいに馴染んでいて、飼い主を探さなければならないのにずっとここにいて欲しいだなんて浅ましい欲が顔を覗かせた。
 けれど当然そんな願いが叶うはずもなく、三日三晩続いた嵐もとうとう過ぎ去って晴れ間がのぞいた。カーテンから覗く太陽の光が痛いくらい目に突き刺さる。あぁ、飼い主を探さなければ。
 重い腰を上げ、ソファで寛いでいた猫を抱えた。抵抗するでもなく受け入れる猫に苦笑する。もし飼い主が見つかってしまったらここに一緒に帰ってくることもないのだと勝手に泣きそうになった。たった三日でここまで人をたらし込むなんて猫とは存外恐ろしい。
 雑念を払って比較的人通りの多い市場に足を向ける。雨続きだったからか普段より多くの人が行き交っていた。丁度いい、と道行く人にこの子の飼い主を知らないか尋ねて回る。けれど予想通りと言うべきか皆一様に首を振るばかりだった。市場の端から端まで歩きながら尋ねても一向に見つからず、やっぱり街に行くしかないかと中心地に続く道を視線だけで辿る。
 距離、結構あるんだよね。既に歩き疲れている私にはより荷が重い。ひとまず休憩がしたい。猫に一言謝って近くのベンチに腰を下ろす。軽やかな風が髪をさらっていくのを手で押さえた。
 家に籠っていたであろう子供たちがようやく体を動かせると言わんばかりに走り回るのをぼんやり眺める。もうすぐ猫とお別れかもしれないという気持ちが胸中を占めている今子供たちの無邪気さが羨ましかった。
 お昼を過ぎ、少しずつ人通りが増えていく。海岸が近いせいか知らない顔の人もちらほら見受けられた。ずっと街の住人が飼っていると思い込んでいたけれどもしかしたら船乗りに飼われていた猫かもしれない。そうしたら本当にもう二度と会えなくなってしまう。益々切なくなって膝の上で首をキョロキョロと動かす猫の頭を撫でる手を止められない。指通りのいい毛に触れるのも、程よい重みを感じるのもきっとこれが最後なのだ。そう自分に言い聞かせることで覚悟を固めていった。覚悟というと重々しいけれど今の私は一人でない心強さを知ってしまったから手放すのにはどうしたって勇気を振り絞る必要があった。
 私が唇を噛み締めている間に何かを見つけたのか猫がするりと膝から降りた。猫が私に向かって一声鳴く。それがまるで別れの挨拶のようで身を固めた。

「あ、待っ……」

 立ち上がり手を伸ばすも空を切るだけで猫には届かなかった。私の制止に背を向け駆け出す猫に呆然とする。そりゃあ今日がお別れの日だと、そう思っていた。だからさっきまで俯いた顔を上げられなかった。それがどうだ。あっさりと猫は私の元から離れてしまった。せめて「楽しかった、ありがとう」と伝えたかったのに。
 脱力し、再びベンチに腰を下ろす。やけに膝が寒かった。

 ◆

 猫が居なくなって二日。飼い主の元へ帰れたのならいいけれど、たった三日過ごしただけなのに誰もいない部屋の中がやけに広く感じ、寂しくて仕方ない。
 愛着が湧くといけないからと名前を付けずにいたけれど全くの無意味に終わったみたいだ。
 家にいる間よく猫が使っていたクッションを抱きしめる。新しい猫、飼おうなぁ。そうしたら寂しい気持ちも無くなってくれるだろうか。
 せっかくの良い天気なのにセンチメンタルな気分は晴れなくてソファの上で蹲る。一人だとおしゃべりする気も起きないから内に悶々とした気持ちが蓄積するばかりだ。そろそろお昼ご飯の時間だけど食欲もないし今日はもういいかと動けずにいると、ドアが叩かれる音がした。
 来客なんて珍しいと首を傾げながらも居留守を使うのも気が引けて玄関に向かう。「はぁい」と扉を開けると長身の見知らぬ男性がこちらを見下ろしていて体を強ばらせた。

「迎えに来た」
「え……っと。どちら様、でしょうか」

 迎えに、だって?
 私には迎えに来るような親しい人間はいないはずだ。しかもこんな怖そうな顔をした人と関わった記憶はない。震えそうになる声を懸命に絞り出すと男性が表情を変えぬまま淡々と信じられない台詞を言い放った。
 
「あの時の猫だ」
「はっ?」

 あの時の猫? 猫って、最近関わった猫はあの黒猫だけだ。この男が猫だって?
 よくよく目を凝らすと猫に付いていたのと同じ金の二連のフープピアスが男の耳元を飾っていた。眼も猫と同じ金色だ。

「猫って、だって貴方どう見たって……」

 そんな、有り得ない。猫が人間になって迎えに来るなんてどんな御伽噺だ。

「能力者が闊歩する世界で何をそう不思議がる」

 そうは言ってもはい、そうですねとあっさり受け入れられるわけがない。今まで私は平凡に生きてきたのだ。能力者の存在は知っている。実際に会ったこともあるし、これまで能力者の存在を当たり前に受け入れてきた。けれどこれとそれとは話が別だ。

「ほら、行くぞ」
「行く、たって」

 手を引かれ、外に出る。触れる体温は当然猫のものとまるで違う。未だに猫と目の前の男が結びつかず、一歩も動けないでいるとびゅうっと一際強い風が吹いて目を閉じた。一瞬体全体で感じた浮遊感と、先程の柔らかな地面と違い、硬さを持った床に足をつけた感覚に恐る恐る目を開ける。目の前に黒くはためく海賊旗が見えた。

「こ、こって、まさか」
「世界中旅して回りたかったんだろ?」

 そう、確かに言った。言ったけれども。

「あの時の猫が、海賊だなんて……」

 分かりやすく驚愕を顔に貼り付ける私に「世話になった礼に世界を見せてやるよ」と男が口角を上げた。
 遠くで出港ー! と叫ぶ声がする。現実を受け止めきれないまま首だけ動かすと住み慣れた島が遠ざかっていくのが見えた。呆然と立ち尽くす私を知ってか知らずか男が静かに私の名を呼ぶ。この男に名乗った覚えはないからやはりあの時の猫だと認めざるを得ないのだろう。
 能力者に猫にされてしまい、とにかく一旦仲間と合流しようとしたが雨に降られたせいでそれも叶わずにいたところ、私が拾ったというのが事の顛末らしい。あの時拾って世話をしてもらったおかげで助かったからその礼だと改めて説明されたが理解が追いつかない。
 完全に見えなくなった島に思いを馳せる。ずっとあの島を出たいと思っていた。きっかけを掴みきれずにいたのもまた事実。
 でも、だ。頭上にはためくジョリーロジャーは頻繁に新聞を賑わせている海賊のもの。ようやく思い出した。彼はハートの海賊団船長、トラファルガー・ローその人だ。新聞で見ていた顔と目の前の顔がすぐに一致しなかった。新聞を読んでいた時はまさか現実に関わる羽目になるだなんて夢にも思っていなかったのだから当然だ。
 じわじわと絶望に蝕まれる。軒先にいた猫を保護しただけだったのにまさかこんな事になるだなんて。
 元凶である男がゆったりと私の足元に座り寛ぐ様が猫と重なる。でも目の前にいるのは間違いなく人間だ。
 鬱陶しいくらい気持ちのいい青空を睨んで本日何度目かのなんでこんなことにといったつぶやきと共に自身の将来を憂いた。


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